2020年9月5日土曜日

習近平vs李克強

 5月の全人代から8月の水害被災地視察にいたる共産党のさまざまな行事の水面下で

習近平vs李克強の激しい暗闘が・・・

2020/5/28年に一度の全国人民代表大会(全人代)が閉幕したその日、中国の李克強首相は恒例の首相記者会見で中国の貧困問題についての記者質問に答える中で「今の中国では、6億人が月収1000元前後」

記者会見は中国中央電視台(CCTV)によっても中継されていたので、李がそこで淡々と披露したこの数字は直ちに全国に伝わってマスコミと国民の間に大きな波紋を

今年3月に国家統計局が公表した2019年の国民1人当たりGDPは7万892元($1万392)で、初めて1万ドルの大台を超えた。一方、14億の国民のうちの6億人が月収1000元であるなら、上述の1人当たりGDPとの落差はあまりに大きい、ちなみに月収1000元は日本円で約¥1万5000、日本の生活保護の基準金額よりもはるかに少ない。今の中国でも、この程度の月収はまさに貧困そのものである。総人口の4割以上を占める6億の国民が未だに貧困にあえいでいる実態を、李が披露した数字によって多くの国民が知り、世界第2位の経済大国の幻想から覚めた。そういう意味においても、中国経済の実態を暴露した李の月収1000元発言はまさに爆弾発言の部類に入るものだが、実はこの発言にはもう1つ重大な政治的意味合い――事実上、習近平国家主席にケンカを売った・・・

習は2015年ごろから”2020年に脱貧困、小康社会の全面的実現”を自らの政権の看板政策として掲げてきた。それ以来の5年間、習はずっと全国の党幹部に対して”脱貧困・全面小康」”実現の大号令をかけ続けてきた。今年になって新型コロナウイルスの影響があった中でも、習は既定の政策目標を変えようとはしなかった。3月、習は”脱貧困達成」”の座談会を開き、「新型コロナの影響を克服し、脱貧困の全面勝利を勝ち取ろう」との檄を飛ばした。とにかくこの2020年内に”貧困人口の全員脱貧困」”を実現させたい、との固い決意が伺える。地方幹部たちは最高指導者の想いを忖度して”脱貧困の成果”を次から次へとつくり出し習を喜ばせようとした。今年に入って省・自治区の多くは「わが地方は貧困人口の全員が脱貧困寸前」と宣言し始めた。人口8000万人の江蘇省に至っては今年の1月7日、「江蘇省で未だに脱貧困していないのはわずか17人」とまで宣言した。各地方から相次ぐ「脱貧困報告」に基づき、習政権は2020年の年末に「14億国民全員が脱貧困し全面小康社会が実現された」と誇らかに宣言し、それを習の偉大な業績にする腹積もりだろう。これで習は、中国という国が始まって以来の最大の偉業を達成した偉大なる指導者――になる筋書きである。

しかし中国首相である李克強の口から出た1つの数字によって、習の偉業達成はかなり危うくなっている。どういう基準で14億人が脱貧困と言えるのかについて、習政権はさまざまな数字の操作を工夫することもできよう。しかし、いくら何でも「6億人の国民が月収1000元」の現状で、習が筋書き通りに今年末の14億全員脱貧困と宣言するのはかなり難しい。無理矢理宣言しても誰も信じないし、ただの笑い話に終わってしまう。要するに”中国有史以来の偉業を達成した偉人”となって自らの権威樹立を図る習近平の目論見は、李克強の手によってほぼ完全に打ち壊され、中国の夢ならぬ習近平の夢の1つはこれで破れた。

もちろん、成熟した政治家の李が、自ら披露した数字がこのような殺傷力を持っていることを知らないわけはない。いや、むしろ知っているからこそ彼は、テレビ中継の記者会見においてこの数字を披露し一瞬にして全国に広げたのであろう。この数字の披露はまさに、李が習に対して仕掛けた奇襲作戦だ。この一挙で習の脱貧困の欺瞞性を暴露したとの同時に、習がただのホラ吹きであることを国民に明らかにした。このケンカの売り方は巧妙なところは、習近平批判をしたわけでもなければ習の名前すら出さず、淡々と披露した数字によって、習に顔面パンチの打撃を与えた点にある。

李は上述の数字の披露によって、もう1つの目的も達成している。それは、李首相こそ国家の実情をしっかりと把握し、本当のことを国民に伝えるまともな政治家であるとの印象を国民と国際社会に与えたことである。そして、その対比において習近平はむしろ国の実情を無視してホラ吹きをする政治家と国民の目に映る。習近平にとっては二重ダメージ。

以上は、5/28の全人代記者会見を利用して、中国首相の李克強が国家主席の習近平に仕掛けた奇襲作戦の一部始終であるが、習主席サイドは当然、何らかの反撃を考えなければならない

そして7月になると、習からの反撃が予想もせぬ形で始まった

7/21習近平国家主席は北京で国内の経営者たちを招いて企業家座談会を開き、中国の経済問題について討議した・座談会には習以外に、汪洋全国政治協商会議主席、王滬寧政治局常務委員、韓正副首相が出席した。共産党の最高指導部である政治局常務委員会の7人のメンバーのうち、習を含めて4人も出席しているから、まさに異例のハイレベル会議だ。当面の経済問題に対する習と指導部の重要視ぶりがうかがえる。驚いたことに、この主席主催の重要会議を首相の李克強は欠席した。中国で経済運営は首相の管轄事項の1つである。政権中枢に設置されている経済運営の司令塔”中央財経指導小組”では、組長の習の下で李が副組長を担当している。李は本来、習主催の経済関連ハイレベル会議に誰よりも出席すべきで・・・

李欠席の原因は、外遊や地方視察のために北京を留守にしていたわけでもない。同じ7/21彼は北京で別の外交活動に参加していることが人民日報の報道で判明している。もちろん、習主催の重要座談会であるから、李が自ら参加を拒んだとは考えにくい。拒む理由もないはず。だとすれば習自身が李を呼ばなかったことが欠席の理由だろう。つまり習は最初から、李を参加者リストから外していた。しかし事実がもしそうであれば、それは重大な政治的意味を持つ出来事である。職務担当が経済運営と全く関係のない王滬寧政治局常務委員までが会議に呼ばれたのに、李が呼ばれなかったのはもはや異常事態、あまりにも露骨な李克強排除だ。

習による李克強排除は当然、前述の李の奇襲作戦に対する反撃、あるいは報復であろう。「俺の経済政策を打ち壊すなら、お前を経済運営の中枢から追い出してやるぞ」という意味合いの行動である。それ以来、できるだけ李を経済政策の意思決定から排除するのが習の基本方針となっている模様。

8/24習近平が9人の専門家たちを招いて座談会を開き、第14次5カ年計画について討議した。この座談会には前述の王滬寧、韓正が出席したものの、李克強はやはり欠席。

ここまでくると熾烈さを増す習近平と李克強との政治闘争は半ば表面化している。こうした中、8月初旬からの恒例の北戴河会議が終わった直後に、李はまたもや思いもよらぬところから習に対する果敢な奇襲作戦を展開した。その舞台となったのは洪水の起きた南部地域である。今年の7月中旬ごろから、長江流域で大雨による洪水が発生し、湖北省・安徽省・江西省では大変な被害になった。胡錦濤時代までの中国共産党政権の伝統では、大水害などの自然災害が発生すると、国家主席あるいは首相などの中央指導者は必ず災害現場を視察し、陣頭指揮を執った。しかし習政権になると、どういうわけかこの伝統が完全に廃れ、災害があっても習以下の指導者はなかなか現場へ行かない。視察に行っても災害がすでに収束した後である。今回も習がやっと安徽省の水害地域に入ったのは8/18。しかしそこでの被害は2週間前にとっくに治まっていた。実際、翌日から新華社通信の公式サイトに掲載された習近平の水害視察写真を見ていると。肝心の川はかなり静かになり水害の痕跡はほとんど見られない。習の視察は緊迫した災害視察というより、余裕綽々の物見遊山風情なのである。しかしまさにその時、中国では別の地方で大変な水害が起きていた。直轄市の重慶である。主に三峡ダムの大量放流が原因だが、8/18からの数日間、大都会の重慶は物流が止まるほどの水害に見舞われた。そして、水害が既に終わった後の安徽省を視察した習近平とは違って、李克強は8/20、水害の最中の重慶へ飛び、電撃視察を行った。視察において彼は、水害の現場を実際に歩き回った。翌21日、李克強がトップである国務院管轄下の中国政府公式サイトに、重慶の被災地の現場で彼が長靴を履き、泥水の中を歩く写真数点が掲載された。長靴で泥水を歩く李克強の写真は、報道されるや否やネットで急速に拡散され大きな反響を呼んだ。多くの中国人民は”しかるべき指導者”の姿を久しぶりに見たのと同時に、数日前に見た別の指導者の写真をも思い出した。そう、水害の痕跡のないところで綺麗な革靴を履いて悠然と物見遊山視察を行う習近平の姿である。この2人の写真を脳裏に並べて再現した時、多くの国民の中で「間が抜けて無責任な指導者・習近平」と「危険を省みず泥水の中を歩く頼もしい指導者・李克強」との対比的イメージが一瞬にして出来上がるに違いない。そしてそれこそが、災害のさなかの重慶を視察し、わざと泥水の中を歩いた李の狙いではないのか。習近平の物見遊山視察の2日後に、李克強が水害被災地の重慶へ飛んで行って視察したのはむしろ周到な計算にも続く政治行動と見るべきであろう。李克強は当然、習近平が18日に安徽省に行ったことを知っていた。習近平の視察写真が国民の間で大変不評であることも知っていたはずで、もし事実がそうなら、これはまた李克強が習近平に対して仕掛けた奇襲作戦の1つである。そして李のこの作戦はどうやら成功したようだ。その証拠がある。彼の視察があった8月20日から23日の晩まで新華社通信・人民日報・CCTVの三大中央メディアは李の重慶視察を完全に黙殺し、一切報道しなかったのだ。共産党ナンバー2である首相の地方視察を、党中央メデイアが完全黙殺するのはまさに異例中の異例である。それは宣伝機関を握っている習近平サイドが、李の重慶視察を国民に知らせることを恐れているからであろう。そしてこのことは逆に、李の重慶視察が習にとって大変破壊力のある行動だったことを証明している。

しかし、李克強の地方視察を完全に黙殺する習近平サイドのやり方はあまりにも乱暴であって拙い。共産党党内からも民間からも大きな批判が起き、逆に支持と同情が李克強の方に集まりかねない。こうした中、23日夜になってようやく、CCTVと新華社通信がこの数日前の旧聞を報道した。そして翌日の24日の人民日報でも、李の重慶視察のニュースは一面を飾った。党内と民間の李首相支持・同情の声に押されて習近平サイドの李克強隠しは完全に失敗し、李の奇襲作戦はまたもや大勝利を収めたのである。

以上は、今年の5月以来、中国の李克強首相が習近平国家主席に対して盛んに売ったケンカの一部始終であるが、この背景には当然、習近平と李克強との長年の確執とライバル意識があっただろう。

2007年の党大会で胡錦濤前主席の後継者を決める時、胡は自らの率いる共青団派のホープで子飼いの李克強を自分の後継者に推したかった。これに対し、当時絶対な影響力を持った江沢民一派はその対抗馬として習近平を推した。結果的には江沢民派の勝利となって習は次期最高指導者の座を約束され、2012年の党大会では首尾よく共産党総書記に選出され翌年には国家主席になった。一方、李克強は最高指導者になるチャンスを奪われ、習の下の首相ポストに甘んじることとなった。このように両者は最初から確執があってライバル意識が強く、信頼関係が全くない。政権が始まった後、習は独裁志向を強め、外交や経済運営などの決定権を首相の李克強からことごと取り上げ、政権内でいわば「李克強封殺」を進めた。

一方の李は習政権スタート以来のこの8年、ずっと隠忍自重して習に逆らわず、不本意な立場で首相職を淡々とこなしてきた。それが今年に入ってから突如、君子豹変して習近平にケンカを売るようになった。豹変のきっかけは新型肺炎の感染拡大だろう。このコラムでも以前に取り上げたが、1月下旬に武漢が都市封鎖された直後、中央に設置された「疫病対策指導小組(対策本部)」の組長(対策本部長)に国家主席の習近平は就任せず、李克強に押し付けた。李克強は危急存亡の秋にもっとも困難な仕事を引き受け、感染拡大中の武漢に入って危機対応に当たった。しかしその後、武漢の感染拡大が治まりかけた時になってようやく、習は「疫病対策はずっと全て自分の直接指揮下にあった」と宣言し、李克強の手柄を横取りしたのである。

おそらく李克強はこれで堪忍袋の緒が切れ、隠忍自重をやめて習近平と戦う姿勢に転じたのだろう。今の習近平政権が内政と外交の両面でかなりの行き詰まりを見せ、習に取って代わる指導者を求める思いが党内と民間に広がり始めていることも李の豹変の背後にあろう。

・・・そういう見方もできるのね・・・

おそロシアもだけど、まさに闘争

アベちゃんならとっくに・・・

今日は~

デンドロビウム キンギアナム /Dendrobium kingianumコンパクタム


7月の終わりごろ

コケが劣化して軸が1本外れたコを植替え






思ったより根が少ない

よく保ってるな~・・・

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