2023年3月11日土曜日

藤原京や平城京といった都はいずれも短命、 なぜ平安京だけは長く続いたのか?

工学博士で元国土交通省港湾技術研究所部長の長野正孝さん
「かつての都では糞尿処理に問題があり、衛生状態が悪くなりやすかった。一方、平安京は繰り返される洪水で浄化されたため、千年の都となれた

天武天皇によって、唐の長安に模した藤原京が676年につくられ
続いて元明天皇によって710年に平城京に遷都が始まった
中国の最新の土木建築技術が導入され、碁盤の目の道路がつくられたことが知られている
藤原京は、奈良県橿原市と明日香村にかかる都で、当時存在した奈良湖とは一番離れた地域それはなぜか?
壬申の乱で天武天皇が勝利した直後であり、外患を防御できる盆地の一番奥に都をつくったと考えられる
その結果、舟運の便が悪くなった
結果、平城京に遷都されるまでの時間は短かった
さらに平城京に710年に遷都されてからも一旦放棄され
恭仁京など幾つもの都を転々とし再度、平城京に落ち着いたのは745年
その後784年、長岡京に遷都されるまでの少なくとも39年間は、平城京が政治の中心地であった

平城京は、物流面では北側に淀川から大阪湾に抜ける木津川と接し問題なかったが、飲み水の確保が難しかった
最盛期には10万人以上の人々が暮らしていたが、水源は佐保川一つであったため生活排水による汚染が進み疫病がはやりだした
井戸は枯渇し、汚染され、たちまち糞尿まみれの街に
碁盤の目の道路をほどよく洗い流すような水が必要であった
中国の外形上の模倣だけの都市計画では無理があり水をコントロールできなかったと考えられる

難波京が維持できなかった理由
神崎川は現在は摂津市から大阪湾を結んでいる淀川水系の21キロメートルの一級河川
延暦4年(785年)4月、時の摂津職和気清麻呂が淀川治水のため掘削を行ない、現在の神崎川の一部となった
古代において川に手を加えればすぐに治水のためにつくられた、という説が出てくるが、これは治水の工事ではない
784年に平城京から遷都された長岡京への物流路を確保するための運河の工事

この時代から100年前、当時の大和朝廷では大阪湾口に港をつくるか否かをめぐる大きな政争が起きていた
蘇我氏が日本海交易と大和川水系の交易路を独占していた時代
大和朝廷はどうしても瀬戸内海に進出したかった
乙巳の変(645年)で蘇我氏を倒したあと、朝廷はすぐに上町台地、現在の大阪城付近に都、前期難波宮をつくり始めた
686年に焼失してしまったが、その後も難波京に挑戦
大阪城のすぐ南西にある法円坂遺跡(古墳時代の大倉庫群跡)は、6世紀頃まで機能し巨大な港湾施設があった
やがて、大和川の土砂が淀川本流に迫り上町台地の先端部に迫るようになった
難波の堀江、難波津などの工事が行なわれたとされているが、押し出される土砂で圧迫された河口部で波が荒れ、この港の機能維持が難しくなった
激しい潮の流れだけでなく、軟弱地盤にも阻まれた
この大阪の軟弱地盤で杭を打って新しい岸壁や物揚げ場づくりに挑戦しても、その後もすぐに埋まってしまう
潮位差が2mほどあり、水が引くと残った水圧によりつくった施設はすぐに崩れ、やがて港ができない都は放棄された
当時の技術では、大阪の築港は不可能であった
明治になってからも淀川改修、大阪港の整備はかなり難工事だった
結局、難波京もあきらめて淀川筋を京都盆地まで上がり、京都盆地に都をつくることを選んだ

794年には平安京に遷都され、京都は明治維新まで日本の首都でありつづけた
京都の場合、運よく賀茂川が北から南に流れるよう土地が傾斜していた
上京の上流部を賀茂一族が昔から支配し、遷都のときにはすでに上水の水供給システムができていた
また、秦氏が灌漑かんがい用水を桂川から引き入れていた
水運として淀川の側方運河として利用された神崎川があった

問題は平城京でも苦労した公衆衛生
平安時代の京都も例外なくすぐに糞尿まみれのマチになった
京の都大路の発掘調査によれば、築地(ついじ)塀の裏は公衆便所もどき、であったと
大勢の糞尿で固まった糞石という塊が側溝や築地の至る所で発見された
公衆便所(汲み取りされる)がなかったから
さらに側溝には馬の死骸、行き倒れの死体まであったと
・・・臭そう~

公衆衛生の対策がない都が、千年以上も続いてきたのは首都である京の治水対策ができなかったから
平安時代末期、時の権力者白河法皇の有名な
「意にならぬもの、賀茂河の水、双六の賽さい、山法師」の「天下三不如意」から分かる
繰り返される洪水が都を洗浄し、千年の都を常に洗って浄化してくれた
度重なる洪水が増え続けようとするスラム街の糞尿を水に流し、市街地の衛生状態を保ってくれたおかげで、街を維持することができた
・・・そうとう頻繁に洪水がアった?
洪水の後は疫病もアったろうに・・・

天正6年(1578年)5月、信長が中国攻めを始めようとしていたとき
京都では大雨が三日三晩降り続き、洪水が起き、四条河原町付近まで水につかったという
しかし、1カ月後の6/14には祇園祭が催された
すぐに水が引く町だった
室町時代に描かれた洛中洛外図には
板張の屋根、板葺土間、網代壁の粗末な家並が続いている
水害で流され壊されても、また簡単に建て直しができるマチだった
洪水にうまく耐える術?がこの都にはあった

・・・そうなんだ~
しらんかった
そういや
パリもロンドンも臭かったって・・・

今日は~
フクジュソウ/Adonis ramosa

先週末
今年のウチでの初モノ
鮮やかな黄色
マブしい

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