2021年4月25日日曜日

茶道の起源は、あの国?

 直訳なんで・・・一部あきらかなマチガイ(茶を車と訳した)は修正

インタビュー365ギムリソン記者=哲学人類学者パク・ジョンジン博士が車専門書
「草庵茶と韓国車の源流を明らかにした茶茶の人文学1」を発行

文献研究と直接現場調査を並行して韓国茶文化の源流を追跡してきた著者は、
著者がこの本を書くようになった動機は、日本の京都デドクサで韓日茶文化交流行事をしていた中、突然、日本草庵茶の精神が韓国の伝統茶の精神が日本に伝わって花を咲かせないかという問いに捕らえたからである。秒(草家)というのは、韓国の伝統文化の象徴ではないか。日本の茶道宗家千利休(千利休、1522~1591)の千(千)さんも、本来韓国の名字だったので、さらに心証を固めるしかなかったという。 

・・・ネット上では
千利休、幼名は田中与四郎(與四郎)、のち法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した
とツッコミが

その後、人類学者として、日韓茶文化交流史に関心を持ちながら草庵茶の源流を追跡し始め、日本に千利休以前に陳氏という苗字がないにも確認した。千利休の前に、日本茶道の縦長とすることができる一休さんソジュン(一休宗純、1394~1481)という人物がいた彼も結婚同盟次元で日本に嫁い考慮宮女の蘇生であっても調べた。著者は、一ケイ素た日本デドクサに居住した大徳住む日本草庵茶の本山だったから、「草庵茶の韓国源流説」が客観的資料を通じて証明されていったと言う。   
著者は、朝鮮朝初期のメウォルダン金時習(1435~1493)の草庵茶伝統が移植され、日本化されたのが日本版草庵茶の完成という主張である。金時習このレース南山に滞在し、金烏神話を書いて、お茶をジェベし、招獄で茶生活をする戦犯を立てたことを日本の僧侶たちが行き来しながらアイデアを得輸入していったのである。 

・・・ネット上では
日本茶道の宗匠といえるイッキュウソウジュン(一休宗純、1394~1481)
李朝初期の梅月堂・金時習(1435~1493)
梅月堂・金時習が生まれた時、一休宗純は41歳くらい
とツッコミが

「メウォルダンは韓国車復活のブラックボックス」と強調した彼は、特にメウォルダンの多くのチャシ(茶詩)を分析するなど、百ページを割いながら振らとしてメウォルダンについて詳述する。  
また、著者は、日本の茶道宗家である千利休(千利休)家は千(千)という名字自体が朝鮮から渡っていった苗字として韓国茶文化の原型をそのまま日本に移植したと言う。 

本は現在の茶の生活の全体的な姿と虚実を診断し、韓国茶文化の将来の方向を幅広く提示する。また、韓国と中国と日本の茶生活と茶文化を比較文化論的に叙述し、韓国茶文化研究の新境地を開拓したという評価を受けている。
40年以上言論界で活躍してきた著者は、1992年時の専門誌月刊「現代詩」を介して詩人として登壇した。「哲学の贈り物、ギフトの哲学」、「偉大な母はこう言った」、「ネオシャーマニズム」、「韓国の武芸マスターたち」、「身体的存在論」など、これまでに出版した本は120冊を超える。 
2002年ソウル市江南区大母山に自作「名付け親塔」シタプが立てられ、2008年には、鬱陵島、独島博物館境内に自作「独島」が雨建てられた。
著者は、現在「次の世界」編集者であり、韓国の国際線茶文化研究会の研究委員、世界の平和統一研究院院長として活動している。

・・・ふ~ん
なんか連想ゲームみたい
・・・ところで一休宗純
マラリアで亡くなったって
これビックリ

今日は~
マメヅタ/Lemmaphyllum microphyllum 金魚葉

どうにも成長が、かんばしくない
で、仕立て直し
玉は変わらないけど
久しぶりの本ちゃんの玉
これ中国南西部のシダ2種を仕立てて以来
芯を炭とかヘゴとかにしてコケで仕立てるのは
あまり保たない

中国南西部のシダ2種の玉は
デカいせいもアるけど10年以上保ってる
芯はゼンマイの根茎
吊りの仕掛けを
ワタスはステンの針金でシダの根茎を巻き
フックやワッカを作る
ただし後で手を傷つけないよう切り口は玉の中へ

ゼンマイの根茎をざっとシュロ縄でまとめる
そしてケト土に
赤玉土の粉(赤玉土を使う時に残る、フルってでる粉)


を、湿らせないで、玉をツブしながらよく混ぜる
これ、やっとくと水を足してドロドロにするより良くまざる
結果ネバリが良くなる
これでゼンマイの玉を覆う
これにマメズタ・ハイゴケを載せて
シュロ縄で縛る
できたら吊るしながら・・・
先々を考えて、ちょっと大きめの玉に
水やりは霧吹き
温度変化・乾燥を防ぐためにビニール袋で覆って吊るす
これを日の当たらない、温度変化の少ない所に

2021/4/26
加筆


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