2018年10月13日土曜日

匿名が生む境地

ぼや川より
単純な・コトもドロドロに・する妻
・・・って・・・

最近、SNSなどにおける議論の不毛さと破壊性が指摘されている。
問題となるコミュニケーションでは
基本的に、相手の語っていることを正確に理解しようという意欲に欠けている
熱心になるのは、相手の発言について傷つく何らかの存在を探すこと
あるいは、その発言の公共の利益を損なう面を指摘すること
相手の語る行為が非道徳的であることを示し
その語られた言葉、あるいは語った人をコミュニケーションの空間から排除すること
少なくとも信用のできない人物として印象づけることで、その影響力を削ぐことにコミュニケーションの努力のほとんどが傾けられる
ここでは、双方が持ち寄ったロジックを戦わせることで
そのどちらもが洗練されていくことは起きえない
弁証法的な議論の展開はなく痛めつけ合うだけの結果に

それは次に説明するような万能感に支配されながら議論を展開する人が多いのにも関わらず、そのことへの自覚が乏しいから
”中立的な立場から被害者に共感する”一見道徳的な実践が
人の心に誤った”万能感”を抱かせることがある
その万能感が、科学などの信頼に足る他者の見解を軽視し
加害者とみなした対象に過剰な攻撃性を向けることに歯止めをかけなくさせる
そして、そのような万能感を批判しているときの自分
まさにその万能感にとらわれている
このような万能感(ナルシシズム)が作り出す精神の監獄から自由になることができるだろうか
”死霊”は、戦後の思想と文学に大きな影響を与えた埴谷雄高の主著とみなされる作品で
登場人物たちが哲学的な議論をくり広げる
思弁的で形而上学的な色彩の強い小説である
1946年から書き始められ、病気などによる中断を含みながら1997年の死の少し前まで書き継がれた
難解であるために直接その書が読まれることはない
しかしその内容が、現代日本社会における倫理観に及ぼしている影響は大きい
”死霊”の第7章は「最後の晩餐」というタイトルがつけられている
ここでは世界宗教の教祖たちに対して、一人の近代的な日本人が軽蔑と拒絶を示し、徹底的な非難を行う様子が叙述された
まず、イエスがその道徳的な瑕疵を責められる
責めるのは
「復活したのちにも飢えに飢えきったお前にまず最初の最初に食われた焼き魚」であり
最後の晩餐で食された「容赦なくこまかく微塵にひかれた小麦の粉」であり
「無残に砕き踏みつぶされた葡萄の粒」である
釈迦も、同様の批判にさらされる
「苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも固い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も幾度も繰返して強く長く噛まれた生の俺、即ち、チーナカ豆」によって、強く弾劾される
・・・いちゃもん
そこに潜む万能感と頑迷さの問題点『死霊』型の万能感
相手の権威はどのような者であっても承認されず
その語る内容に耳が傾けられることは一切無い
生命としてこの世に存在する以上は避けがたい特質(この場合は「食べる」こと)を指摘し
その非倫理性を断罪する
批判の対象となった存在は常に加害者として規定される
その加害者の罪悪を強調するために、被害者の痛みと損害は強調される
このように構築されたロジックによる攻撃から逃れることは、どのような存在でも不可能
イエスや釈迦であっても
・・・聖お兄さんのイエス様やお釈迦様ならイケそう
このように展開される言語ゲームの中で、勝利を得る可能性を追求するなら
自らも身体を持ってこの世界に生きている存在であること(したがって、他者に対して本質的に負い目を持つ存在であること)を超越しようとする
非存在とか虚体といった観念に訴えねばならない
それを、埴谷雄高は、その全生涯をかけて追求した
・・・自分のことは棚に上げた言葉遊び
ここでは、人との対話の目的が倫理的に勝つことに収束
相互が実際に支え合う社会的な存在であることが否認されている
埴谷の論法を徹底するならば、イエスに食べられた魚もまた、他の生命を食べた罪に問われるのでは・・・
この埴谷の思想を、水準を下げて引き継いだような精神が現代社会で蔓延
その人々は、安全な見えない場所に自らを隠したまま、決して当事者になろうとしない
相手から攻撃を受けない傍観者の位置に自らの姿を隠し続けたまま
一方的に当事者が何かを傷つけたことを探し、非難する
・・・ネット社会
その精神のなかの万能感は肥大している
そのようにして育成された、現代の正しい人々が
善意の名の下に、攻撃性を発散させ続ける
そして居合わせた不幸なスケープゴートを犠牲にする
そして、その自らの行為の結果について検証することも、その責任を取ろうとすることもない
このような攻撃性が、今現在、私たちが暮らす社会の中で猛威を振るっている
ちなみに、このような心の働き方が
その本人に慢性的なうつ状態をもたらすことがある
そのような人々の心の中では、過酷な批評家が活発に働いていて
世間の悪への怒りを始終たぎらせているのと同時に
じゃ~テメエがド~なんだと自分自身のことも厳しく監視してしまう
その結果、他人との本当の信頼関係を構築することが困難になり
常に不全感と罪悪感に悩み、自己評価が低いままに留まる
このような万能感の肥大によるナルシシズムの蔓延は、ど~防げる?
それは非存在の
自らが責められ傷つくことのない場所に留まることを放棄し
多くの限界に制約され傷つくことのある当事者の責任を引き受けて
自らの立場を明確にしながらコミュニケーションを行うことだ
中立的な立場から事後に客観的かのようなまとめを発言するだけの行為であっても
それが現場で当事者性を持って物事に関わる人の努力を貶める効果を及ぼす可能性がある
自らの顔と名をさらしながら勝つことも負けることもあるコミュニケーションに参加し続けることで
やがて自分のことも相手のことも尊重する寛容さが育まれる

・・・ヒトを、ある断面で分けると
コトを為す人と
それをア~でもねえ、コ~でもねえと文句を垂れる人
(ソレでコトを為せない自己を保ってる)が

・・・↓はちょっと?な面も
言葉が先走ってる?

今日は~
ハオルチア テッセラータ/Haworthia tessellata
7月、珍しく花芽
開花せずに・・・
熱かったせい?
ところで全然大きくならない
・・・この方がイイけど
あと
ど~しても葉先が焼ける
土が水はけ良すぎ?
もう少し赤玉を増やそうか・・・

2018/10/14
修正


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