2025年8月2日土曜日

終わりかた

ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、いわゆる寝たきり老人はいないと、どの福祉関係の本にも書かれています
他の国ではどうなのかと思い、学会の招請講演で来日したイギリス、アメリカ、オーストラリアの医師をつかまえて聞くと
「自分の国でも寝たきり老人はほとんどいない
一方、我が国のいわゆる老人病院には、一言も話せない、胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます
今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学
寝たきり老人は1人もいませんでした
胃ろうの患者もいませんでした

その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら
口から食べられなくなるのは当たり前で
胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識している
逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえある
日本のように高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません
肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません
内服投与のみ
したがって両手を拘束する必要もありません
つまり、多くの患者さんは寝たきりになる前に亡くなっていました
寝たきり老人がいないのは当然でした
欧米が良いのか、日本が良いのかは、わかりません
しかし、全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない
そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると人間の尊厳について考えざるを得ません

家内と私は「将来、原因がなんであれ、終末期になり、口から食べられなくなったとき、胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は一切希望しない」
を書面にして、かつ、子供達にも、その旨しっかり伝えています・・・

そして
スウェーデンのほとんどの高齢者は、現在暮らしている所で延命されずに緩和ケアを受けて亡くなります
スウェーデンの緩和ケアとは、どのようなものでしょうか
現地で、認知症専門看護師として働く長谷川佑子さんに聞いてみました
長谷川佑子 認知症専門看護師
終末期の緩和ケアは、病院でも高齢者施設でも
痛みや不安などのあらゆる苦しみをなくし、あるいはできるだけ少なくし、患者さんが穏やかに過ごせるようにする
医師は、終末期の苦痛緩和のために緩和ケアセットという複数の薬剤を処方します
モルヒネの皮下注射などの麻薬も含まれています
看護師はその中から、自身の判断で、いつでも本人が望むだけ薬を投与することができます

家族には
「この薬で痛みがとれる分、ほぼ 昏睡こんすい 状態で会話ができなくなったり、呼吸が弱くなって命が短くなったりすることがあります
でも、穏やかに最期を迎えられます」と説明します
多くの家族は「命が短くなっても苦痛をとってほしい」と薬剤の使用に納得してくれます
そのためベッドサイドで付き添っている時に
本人が少しでも顔をしかめることがあれば、職員を呼んで「薬を投与してほしい」と
私が日本の病院に勤めていた頃、終末期の患者さんは 痰たん がひどく、吸引をするのは当たり前でした
痰が取れると呼吸は楽になりますが、吸引する時にせき込み、とても苦しんでいました
一方、スウェーデンの病院では
高齢期疾患科に勤めていた7年間に痰の吸引をしたことは一度もありません
高齢者施設に移ってからも吸引をしたことはありません
なぜなら、痰がほとんど出ないからです
時々、心臓の働きが悪く、肺に水がたまる患者さんがいますが
点滴や経管栄養をしないために脱水になります
2、3日もすると静かな呼吸になります
スウェーデンでは、終末期の患者さんの呼吸がとても穏やかなことに驚きました

日本では、終末期であっても点滴や経管栄養をします
体に余分な水分を入れるため痰が多くなったり、肺に水がたまったりして、患者さんに苦痛を引き起こしていたことに気づきました
また、こちらでは終末期に血圧測定、心電図モニター装着、血液検査などは一切行いません
それらの情報があっても治療するわけではなく
患者さんは測定のために苦痛を感じるだけだからです
日本では当たり前のことが行われず初めは不安でした
しかし緩和ケアでは、数値や心電図の波形からではなく
本人の様子を見て状態を知り、必要なケアを行うことを学びました
死期が近くなると、日中も眠ることが多くなります
痛みが出なければ、背もたれを倒せるゆったりとした車いすに座ってもらい、快適に過ごせるように工夫します
食事や水分が取れなくなっても、胃ろうを造ることや、点滴をすることはありません
体の働きが止まっていく段階では、水分を投与しても体はそれを活用できないからです
食事は、本人が食べたいもの、飲みたいものを望む分だけ介助します
無理強いしません

終末期の食事の目的は栄養を取ることではなく、味を楽しむことだからです
甘いものが好きな人には、アイスクリームやチョコレートを口にいれます
飲み込みが悪い人には、好きな飲み物をスポンジに浸して舌の上に載せます
食べる雰囲気も大切です
夏はさわやかな空気を感じられる窓辺や庭
12月はクリスマスの音楽が聞こえる部屋など、本人の好む場所を用意します

家族を支えることも大事なケアの一つです
私がスウェーデンらしいと思ったのは、スタッフがコーヒーとクッキーを持って家族の所へ行き、座ってゆっくりと話をしていたこと
お茶を飲みながら話を聞くことで、家族が何を求めているのかを知り、より良い関係が作れます
本人の人生について語ることができた家族の多くは亡くなった1か月後の遺族ケアで
「悲しみだけではない、意味のある時間を送れた」と

緩和ケアだけで最期の時を待つことは、本人と家族にとり簡単なことではありません
しかしスウェーデンの介護施設や病院では職員皆が、本人中心の緩和ケアが良いと考えています
そのた、本人も家族も納得して満足して、最期の時が迎えられます

宮本礼子 内科医
我が国も60年ぐらい前までは、高齢者は自宅で穏やかに亡くなっていました
生まれることと死ぬことは自然なことなので、寿命に 抗あらが わず、余計な医療を行わなければ、穏やかに死んでいくことができます
私の患者さんで、経管栄養や点滴をしないで、食べるだけ飲めるだけで眠るように亡くなった方を紹介します
亡くなる4か月前から食欲がなくなり食べる量が減りました
息子さんに人工栄養(点滴、 鼻腔びくう や胃ろうからの経管栄養)を望むかどうかを聞いたところ
「自分はいつまでも生きていてほしいけれど、母は延命されることを望まないので、延命はあきらめます」
そのため、食べるだけ飲めるだけとしました
亡くなる1か月前から食事は数口になり、2週間前には少量のお茶だけになりました
4日前には「食事はいりません、温かいお茶が飲みたいです」と言い
2日前は「ごめんね、お茶はほしくないのよ」とお茶も飲まなくなりました
前日は「ありがとう。そばにいる? いてくださいね」と言い
当日は家族がまもなく来ることを伝えると、うっすら目を開けて
「あ~、そうかい」と言い、8時間後に眠るように亡くなりました

延命されている期間が長いと、昏睡状態になります
一方、食べるだけ、飲めるだけの自然な死では、別れを言える人がいます
90代のあるアルツハイマー病の女性は、お嫁さんに初めて
「ありがとう。世話になった」と言って亡くなりました
人は全く飲食をしなくなると2週間以内に亡くなります
そのため極端にやせることもなく、自然な姿で亡くなります
看護師はご遺体が美しいと言います
余計な点滴や経管栄養をしないので肺炎などを起こさず、熱も出ず、痰も出ません

眠るように亡くなった人の姿を見ると、これが本来の死の姿であることに気づきます
ある家族は
「自分も将来、このように亡くなりたい」
「こんなに安らかに死なせていただき、何とお礼を言えばよいのかわかりません」

ある看護師
「今まで、通常の量の点滴をして亡くなった患者さんは、皆苦しそうだったけれど
食べるだけ飲めるだけで点滴を行わない患者さんは、どの人も死に向かって穏やかになっていった
こんなに穏やかな死は見たことがない」と驚いていました

別の看護師
「私は若いころ、病院という所は何か治療をしなければいけない所だと思っていた
だから何もしない患者がいると、どうして退院しないのだろうと納得がいかなかった
しかし今は、治療をしないで穏やかに看取ってあげるのも私たちの仕事だと思えるようになった」

おなかがすいたり、のどが渇いたりして、苦しまないだろうか
と心配する家族がいます。
しかし亡くなる人には栄養も水分も必要ないので、おなかもすかず、のども渇かないのです
終末期の患者にとり、脱水や低栄養はむしろ良いことです
なぜかというと脱水や低栄養になると、脳内麻薬であるβエンドルフィンや血中のケトン体が増加します
血中のケトン体は、栄養源として自分自身の脂肪が使われることで増加します
そのため意識が 朦朧もうろう として気分が良くなるのです
終末期に点滴や経管栄養を行うと、このような恩恵が受けられません
枯れるように死んでいけば、楽に死ねるように私たちは創られているのです

20年ほど前にスウェーデンに行った時
高齢者は延命されないで穏やかに亡くなっていることを知り、心底驚きました
その当時の日本では延命は当たり前で、穏やかに最期を迎えている人はいなかったからです
しかし、この20年で日本もスウェーデンのように介護施設で延命されずに、安らかに看取られる高齢者が増えてきました
その数は12%(※)とまだ少ないですが20年前は極めてまれだったことを思うと、隔世の感があります
高齢化が進み延命を望まない人が増え、訪問診療医が自宅や介護施設で延命せずに看取ってくれるようになったからだと思います
人はいつか必ず死にます。その時、穏やかに亡くなっていきたいものです
(※)全死亡者に対する割合のため、高齢者に限ればさらに多くなると思われる

 仏教に目覚めて死の恐怖を克服… 宗教を取り入れた終末期医療施設
「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧~」
お坊さんと患者がともに唱えるお経が響く
ここは新潟県長岡市にある長岡西病院のビハーラ病棟
仏教を取り入れた看護を実践する終末期医療施設
病棟長の今井洋介医師
「患者さんは高齢で末期のがんを患っている方がほとんどです
ビハーラとホスピスの違いは、病棟内の仏堂で朝晩2回行われるお経と法話からなる勤行など、日々の暮らしの中に仏教が息づいていることです
西洋医学が発達していくなかで
日本的な終末期のケアや看取りが失われているのではないか
というのが出発点でした
かつてはお坊さんが死者を看取ったり、お経を唱えて患者の苦痛を和らげていたりした時代があったわけです
しかし医学の発達で、そうしたものが医療現場から損なわれてしまった
これを見直すことが必要だと'80年代に勉強会が始まり、ここが実践の場となっています」
死を間近にして宗教と向き合う
日本人に多い無信仰の人にとって、違和感はないのだろうか
「不思議なくらい抵抗はないんです
。朝晩の勤行がいい生活のリズムをもたらすんです
腹の底から声を出してお経を唱えることも、お坊さんの読経を聞くことも
患者さんにとっていい
もちろん、それで病気がよくなることはないかもしれませんが、お坊さんの話を聞くことで、気持ちが軽くなることもある
我々医者は
患者さんの症状を定量化して、どういう治療が必要なのかをジャッジするのが仕事です
一方、お坊さんは、そういうことをしない
患者さんに起こっている、ありのままを受け入れて、その場を少しでも幸せにするためにお話をしてくれ
本当にここに来てよかったという声はよく聞きますね」

死は誰にでも平等に訪れる
自身の人生経験から死の恐怖を乗り越えられる人もいるだろうが、多くの人はそんなに強くはない
そこに宗教の存在意義がある

自らも仏教の教えによって終末期の患者を支える活動に従事する仏教学者で、仁愛大学学長の田代俊孝氏が
「仏教というのは、無常や無我を説く哲学です
すべては移り変わっていくものであり(無常)、人は自らの力で生きるのではなく(無我)、環境や周囲の関係性(縁起)によって生かされていると教えてくれます
そのことに気づくことができれば救いとなります
生も死も自分でコントロールできるものではないとわかれば
あたふた悩んだり苦しんだりすることはなくなります
仏教に目覚めて死の恐怖を克服した人に、私は何人も出会いました」

'11年の東日本大震災がきっかけとなり、宗派を超えて終末期患者に向き合う臨床宗教師という専門資格も生まれ
同資格を持つ法永寺(青森県五所川原市)住職の小山田和正氏
「臨床宗教師は説法をするわけではなく、患者さんに話をしてもらうことが重要です
患者さんは、医者や看護師、介護士と話すことがあっても、それは主に病気や介護について
また、家族や友人と話すことがあっても、悩みについては打ち明けられないこともあるでしょう
しかし宗教者を前にすると、医師や家族には話せない悩みを打ち明けようと思ってもらえることがあるのです
死期が迫った不安や悩みを家族や医療従事者にぶつけることは難しい
そういう人に寄り添えるのが宗教であり、臨床宗教師はそういう存在だと思っています」
無論、臨床宗教師が問題を解決するわけではない
小山田氏も答えられない問いに直面したこともある
「終末期の方と向き合い始めた当初、『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』と問われました
そのとき、私は話をそらして逃げてしまいました
今もその答えはわかりません
ただ、答えられないものは答えなくても構わないと今では思っています
患者さんと向き合って、答えの出ない問いに寄り添うことで
当人にとってほんの数パーセントでも死の苦しみを和らげられたかもしれない
行き場のない気持ちを落ち着かせることができるかもしれない
それが宗教の役割ですので悩んでいる人は臨床宗教師と接してみるのもいいかもしれません」

介護の現場で働いた経験もある淑徳大学教授の結城康博氏は、カトリック信者
信仰が末期の苦しみを和らげる現場を何度も見てきたという
「理不尽な痛みや苦しみも、『これは神の国に行くためのプロセスで、神の試練だ』と納得し、晴れやかな顔をされた患者さんを見てきました
そういう場面を見ると、信仰も悪くないと思います
私自身は1~2ヵ月に一度くらいしか教会に行かない信者で
神の国があるのか半信半疑なところもあるのですが
人間死んだら終わり、という考えはなんだか面白くないじゃないですか
神の国があるかもしれない、と思うだけで、やはり希望になる
それが宗教のよさだと私は思います」

宗教とは人類が培ってきた「死を乗り越えるための知恵」なのかもしれない

もう一つ
最期が近くなった高齢者には「何もしない」ほうがいい
高齢の患者が死を迎えるとき家族は何ができるのか
認知症の専門医である長谷川嘉哉さん
「もう医療にできることはない段階なら、最期は病院に運ばずに自宅や施設で静かに見送るのがいいでしょう」

長谷川先生:「最期が近くなった高齢の患者さんは、食べられなくなる」
と言うと、たいていの方は
「そうだよな。それって当たり前だよな」とわかります
でも、やっぱり自分の大切な人が死ぬとなると、冷静ではいられなくなるんでしょうね
「なんとか食べさせられないか」と躍起になるご家族も少なくありません

編集T:わかる気がします。僕もいざとなったら、親に食べてもらうために頑張っちゃうかもしれません……

長谷川先生:気持ちはわかりますけどね
でも、私はこの段階になったら
「最期が近づいてきたようです
自然な形で逝かせてあげるのが、本人がいちばん苦しくないと思いますから
周りは余計なことをせず、静かにお見送りしませんか?」とご家族に提案します
介護生活は長期間ですから、こうなるもっと前の段階で、すでにそういう話し合いはしているんですけど
最後に改めて確認するわけですね
すると、たいていのご家族は
「そうですね。おだやかに逝かせてあげたいです」
と、そういうふうにおっしゃいます
ただ、そういうご家族でも、患者さんが水も飲めない段階になってくると
「食べられないのはともかく、飲めないのはのどが渇いてつらそうだから、せめて点滴ぐらいしてあげたほうが、本人がラクなんじゃないですか?」
と言うことがあって

編集T:むちゃくちゃ、わかります! だって、のど乾くの、つらいじゃないですか

長谷川先生:ところが、ヒトって脱水状態が続くと
脳内にモルヒネ様物質が分泌されるそうなんで
。モルヒネって、終末期のがん患者さんの痛みを緩和するために処方されるやつですね
脱水状態が続くと、これに似た物質が脳内で分泌されて、フワフワとした幸せな気持ちになるといわれています
だから、健康な人が思うほど、苦しくないみたいなんですね

編集T:ホ、ホントにそうなんですか?

長谷川先生:私もまだその段階を経験したことがないのでわからないのですが
医学的にはそうだといわれています
そんな心地のいい状態にいるのに点滴の針を刺すと
その痛みで患者さんの意識は苦しいだけの肉体に戻ってきてしまうんですよ
それに、飲めなくなった段階というのは、身体が水分を処理できなくなった段階です
ここで点滴をすると、余分な水分が身体に溜まり、やがて肺も水びたしになります
すると患者さんは常に溺れているような状態になるので、ものすごく苦しいです
余分な水分のせいで痰も出やすくなって、むせやすくなるし
結局のところ、この期に及んでする点滴って、患者さんにとっては苦痛でしかないんです
それなのに……あなたの「点滴をしてあげたい」という満足感のために、患者さんを苦しめてもいいですか?

編集T:……わかりました。でも、見てるだけってつらいです

長谷川先生:それなら、濡れたガーゼで唇を軽く湿らせたり、小さな氷の欠片などを口に含ませてあげたりするといいでしょう
そもそも、のどの渇きは点滴では癒せませんからね
何かしてあげるのであれば昔の人がやっていたように
患者さんのそのときの身体の状態にふさわしい、自然なケアをしてあげてください
おじいちゃんやおばあちゃんが食べることも飲むこともできなくなったら、いよいよ最期は近いです
この段階で、胃ろうも中心静脈栄養も点滴もしなければ
早ければ数週間程度でお亡くなりになると思います
この段階で患者さんが介護施設に入っているなら
危篤の際は施設の協力医が「
ここ数週間が峠です」みたいなことを教えてくれると思います
自宅介護をしていて、在宅医に診てもらっている場合もそうですね
「そろそろ最期が近いようです」と往診の際に教えてくれるでしょう
続いてご家族は、医師に聞かれると思います。「ここから、どうなさいますか?」

編集T:そのまま何もせずに看取るか、病院へ搬送するか。どっちか決めてください、ということですね

長谷川先生:そういうことです
私は、高齢で肉体の寿命がほとんど尽きていて、そのせいでそろそろ亡くなるということがわかっている段階であれば
余計な医療を施さずに、自然なカタチでお見送りするのがいちばんいいと思っています
それが、患者さんのおだやかな死に繋がるからです
だから、医師が
「もう医療にできることはないので、静かにお見送りしませんか」
と言っているのであれば、危篤の際に病院に搬送する必要もないと思うんですね
そうそう。そもそも病院に行くということは、治療を受けるということで
治療をしないという選択肢はないんですね
それで点滴とかされてしまうわけですが
終末期の方に点滴をしても鎮痛目的でもない限り、いいことはないわけですよ
でも、施設や自宅なら
医療的な処置を何もしないで、静かに見送ることが許される
だから最期は病院に運ばないほうがいいと思うんです
でも、やっぱり中には
「最後に一度、病院で診てもらったほうがいいんじゃないか」
とおっしゃるご家族も少なからずいます
「世間体があるから、一度は病院へ」
そういう場合、私はあえて患者さんを病院にお送りすることもあります

編集T:なんでそんなことを……。

長谷川先生:そうすることで、わかってもらえることがあるからです
実際、老衰の高齢者さんに施せる医療はほとんどないので
病院に入院しても、医療スタッフは思ったほど優しくしてくれません
ときどき体温を測りにきたり、点滴を打ちにきたりする程度です。それ以上できること、ありませんから

編集T:それを見てご家族はようやく、「もう静かに見送るしかないんだな」と実感する

長谷川先生:そうなんです。でも、それはそれで、切ないでしょう?
ですから、患者さんを病院に送って、わざわざそんな切ない想いをする前に
「自然な終わり」を受け入れたいものです

・・・親族には
延命治療はしないで・・・
病気が治る見込みがないなら
いわゆる管はツなぐな・・・
人工呼吸器はヤめて・・・
と言われてる
ご希望には沿いたいが・・・

自分も、そう思う
遺書にでも書くか・・・

なんか
医療費削減を渇望する
お国の意向に沿うようで
腹も立つが・・・

今日は~
メスグロヒョウモンの♂
放蝶で
はっきり言って
ツマグロヒョウモンの♂と区別が・・・
よく調べれば・・・そこまでの力がない
なぜメスグロヒョウモンとしたのかは
後ほど・・・

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